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左官のいろいろ vol.1

更新日:2022年12月5日

今回は、土を使い分ける職人とも言われる「左官」に焦点をあて、その魅力や歴史などを掘り下げてみたいと思います!(2回に分けてお伝えする第1回目です)


左官の歴史

縄文時代

左官の起源は縄文時代と言われています。当時は竪穴式住居。土は最も手に入りやすい材料で、土に水分を混ぜて小さなかたまりを作りそれを積み上げて壁を作っていました。 その後、現在のような様式になったのは、飛鳥時代になってからだといわれています。


飛鳥時代

左官技術は現在のトルコ・シリアで生まれ、シルクロードを渡り、中国、朝鮮半島を経て仏教の伝わりと共に、日本へ伝わりました。石灰を使って白塗りの壁の仕上げる技術や細木で壁の芯を作る現代へと繋がる技術です。中国で代表的な石灰を使った古い建築物には万里の長城があります。日本で初めて左官が関与した建物は、飛鳥寺と言われています。 このように飛鳥時代に入り、現在の左官工事の元となる手法がとられて行ったようです。


戦国〜安土・桃山時代

戦国時代、日本各地に城ができ、飛躍的に日本の左官技術が発達します。その後、安土・桃山時代になると茶室の建築に色土が用いられ、土の色をコントロールするだけでなく、砂や繊維を混ぜることで様々な表現が可能になりました。千利休などの茶人によって数寄屋技術が全国に広がり、数寄屋建築の中で左官は発展していきました。


江戸時代〜戦前

江戸時代には漆喰仕上げが左官によって開発され、建物の耐火性を飛躍的に向上させ、まちで良く起きていた火事を減らすことに貢献しました。また商人の蔵や町家へと普及していき、芸術性という面においても、飛躍的に向上したのがこの頃で、漆喰彫刻というレリーフ状の装飾的施工も行われるようになりました。文明開化頃には、擬洋風建築と言われる建物も多く出現しました。そして、明治以降左官は洋風建築の担い手になり、また、権力者・商人などを中心に、数寄屋建築の文化も広がっていき、左官の隆盛は戦争が始まる昭和11年まで続きます。



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